日蓮大聖人第734遠忌報恩御会式

信養寺の「お会式」が、平成27年10月11日(日曜日)に厳修されました。

午前11時より信養寺住職小林栄量上人ご導師のもと、杉浦上人、高野上人式衆にて法要が厳かに執り行われました。午後1時からは例年どおり、大阪「雲雷寺」住職の伊丹瑞栄上人の法話を聴聞いたしました。

伊丹上人は小林上人と大学以来の親友とのことで、平成24年のお会式で初めて法話をして下さり、以来毎年法話をしていただいております。今年も早朝に大阪を発たれ信養寺にお出で下さいました。

伊丹上人の法話は臨終をどうとらえるか、ということからスタートしました。日蓮聖人のお言葉に「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」とあります。とかく死ぬことは暗いイメージを持ちやすいものですが、日蓮聖人が理想の浄土として現わされたのが「大曼荼羅御本尊」であり、我々は大曼荼羅御本尊の世界から命をいただき生まれ、現世での仕事が終わり臨終を迎えると、大曼荼羅御本尊の世界へ戻っていく。決して暗い闇の中を自分一人で彷徨っているのではないのです。

日蓮聖人はこうも言われています。「自分は亡くなり霊山浄土にいるが、後から来た人を必ずお待ちしている・・・、但し各々の信心に依る。」死ぬことは怖いことではなく、お題目を唱え信仰を重ねれば必ず仏となって日蓮聖人に導いていただくことができるのです。

私たちはお釈迦さまが残された多くの教えを享受していますが、お釈迦さまはどのようにして人々に教えを説いたのでしょうか。当時の人々にとって、お釈迦さまの話は難しく理解できなかったため、始めは誰にでも分かるようなところからスタートし徐々にレベルアップして、ちょうどピラミッドの石を積み上げるように、数々のお経を説かれました。その頂点にあるのが最後に説かれた法華経です。法華経はお釈迦さまが説かれたすべてのお経が集約された最高の教えで、華厳経、阿含経、方等経、般若経など法華経以前のお経(爾前の経)が全て包含されています。法華経ではすべての人々は平等に成佛できる機会を与えられているのです。

法華経は全28章(品)から成り立っており、10章以降にはお釈迦さまは自身が亡くなられた後、法華経を広めこの世をどう導いていくかが記されています。特に争い事の多い末法の時代において、お釈迦さまは現在の弟子達(菩薩)では、娑婆世界で法華経を広める力量がないと判断され、地涌の菩薩を出現させました。おびただしい数の地涌の菩薩を見て驚いた弟子の弥勒菩薩は、この菩薩達は誰か。何処から来たのか。とお釈迦さまに尋ねました。お釈迦さまは、私は釈迦族の王子として生まれ19歳で出家し、菩提樹の下30歳で覚りを開き、多くのお経を説いて現在に至っているが、実は遥か大昔(久遠の昔)より仏であった。その時から教化してきた「地涌の菩薩」達である。末法の娑婆世界において法華経を広めることが出来るのは、「地涌の菩薩」の中でも最も優れた「上行菩薩」であると言われました。

末法の始まりは日本では鎌倉時代にあたり、源氏と平氏の戦いから鎌倉幕府と朝廷の争いが起こるなどお釈迦さまの予言どおり乱れた世の中になっていました。お釈迦さまは法華経を広めようとするものは、多くの法難に合うと法華経「勧持品」に記されています。日蓮聖人はこの「勧持品」に書かれている多くの法難に合うことを覚悟して、「法華経」の教えに基づいた国づくりを決意され、「立正安国論」を鎌倉幕府に進言するなど全身全霊を布教活動に捧げました。石や瓦を投げつけられたり、その場に住めなくなるような迫害を受け、更には命の危機にさらされるとこも幾度もあり、二度の島流しに合うなど、様々な法難に合いながらも法力により難を逃れました。二度目の流罪、即ち佐渡への島流しの折、正に自分自身のことが「勧持品」に描かれており、末法を救うためお釈迦さまから遣わされた「上行菩薩」であると確信されました。

お会式法要が盛大に行われるのは、日蓮聖人がお釈迦さまが説かれた「法華経」の中に登場してくる人であること。この世の中を救うことの出来る「お題目」が末長く継続していくことを毎年確認すること。一年間、法華経・お題目を信仰(広めた)した証として皆が一同に会し、日蓮聖人の報恩に感謝し、明日からの一年自らの信仰を更に深めるとともに、悩んでいる人を導いていくことを誓うことも「お会式」を行う意義であります。

*お釈迦さまの数多くの教えの中に大集経(五箇の五百歳)がある。

これは五百年ごとに訪れる時代を予言したもので、お釈迦さまが亡くなられた後の五百年は、お釈迦さまの教えを正しく理解して、覚りを得る人が多い時代「解脱堅固」。

次の五百年は、心安らかに修行ができる時代「禅定堅固」。

次の五百年は、お経を読み説法を聞く人たちが多い時代「読誦多聞堅固」。

次の五百年は、数多くの寺院や塔が造られる時代「多造塔寺堅固」。

次の五百年を「闘諍堅固」といい、争いごとが多く起こる時代。

さらに最初の「解脱堅固」と次の「禅定堅固」を合わせた千年間を「正法時代」といい、「読誦多聞堅固」と「多造塔寺堅固」を合わせた千年間を「像法時代」、

最後の五百年「闘諍堅固」はその後、一万年続くと言われる「末法時代」

広報 中村