お知らせ・イベント
平成二十九年十月十五日(日)小雨降る中、信養寺に於て 日蓮大聖人第七三六遠忌報恩御会式が厳修されました。当日は二階客殿(多目的ホール)に於て、お抹茶のお茶席が設けられており、表千家講師中村宗和先生一家一門によりお薄とお菓子の御振舞いがありました。
日頃の気忙しさから解放され、心穏やかに癒され、身も心も豊かにさせて頂き法要に臨む事が出来ました。中村先生はじめ皆様ありがとうございました。
日蓮大聖人は幾度の法難にお遭いになり乍らも、私達衆生をお救い下さるため法華経をお弘めお残し下さいました。今年は大聖人の第七三六遠忌に当たります。
当山住職小林栄量上人御導師の下、矢田堀堯司上人並びに阿部全雄上人により、大聖人に報恩の慎を捧げるべく法要が厳修されました。
檀信徒の皆様も心一つに一心に感謝の気持ちを込めお題目をお唱え致しました。
法要中、大聖人に献茶の奉納もあり、又散華もあり、それはまるで色とりどりの華がお経文の文字となって皆様の頭上に舞って来た様な有難い感じが致しました。
法要が済むと、食事の用意がされており、普段なかなかゆっくりお話しする時間もないので、皆様和やかに話をされ乍ら楽しいひと時を過ごしておられました。
一時より本堂に於て 大阪雲雷寺住職 伊丹瑞栄上人による法話を頂きました。
伊丹上人は小林栄量上人とは、大学時代からの親友であり格式の高い立派なお寺のご住職であるにもかかわらず、とても親しみ易く、明るく、笑いを誘い乍ら、「報恩御会式とは、日蓮大聖人のご命日の法要であり、恩に報いるには恩を感じないと報いる事が出来ない」という内容を色々な事例を交え乍らわかり易くご法話下さいました。
不思議な事というのは、まわりに沢山あります。先ず私達が生きている事が不思議で、因縁によって生かされているという事、又夢でも色々な不思議な事をお知らせ頂いていると、実例として、伊丹上人の奥様が見られた夢の話をしてくださいました。
日蓮大聖人も幼少の頃、不思議な体験をされていらっしゃいます。幼少の頃のみならず生涯を通して神秘現象を体験していらっしゃいます。その一つとして大聖人が十二歳の時、清澄で得度をし、善日麿となりました。出家の動機は、お釈迦様お一人がお説きになった教えなのに、何故何人もの人が違った法を説き、八宗十宗もあるのだろうかという疑問を解く為であり、清澄寺に祀られていた智恵の神様と言われている虚空蔵菩薩に「日本第一の智者にして欲しい」と祈願しました。ある日、夢か幻か分からないが、もうろうとした中で高僧となって虚空蔵菩薩が智慧の宝珠を下さいました。ご自分の祈願が叶った瞬間でした。出家して十六歳で蓮長となり、鎌倉に行って勉強し、続いて比叡山に行き十六年間又勉強をし、三十二歳の時自分は上行菩薩の生まれ変わりだという確信と自覚を持ち、比叡山を下り、お題目を全世界に広める決意を持ち、大阪、伊勢を通り、房州小湊に帰って来て、立教開宗をしました。待ちわびていた人達に、仏になる道はお題目一つしかない、と説法した為に、念仏等を信じていた人達に、清澄から追放されてしまうが、お題目を弘めると必ず迫害にあう事は分かっていたが、上行菩薩の生まれ変わりならば法華経を弘める任務があると、幾多の迫害を受け乍らも動ずる事なく説き続けて下さいました。この法華経を弘めたら、こういうふうになりますと、法華経のお経本の第十三番目の勧持品に全て書いてあります。我々に変わって始めに法難を受けられ、一生迫害を受け乍らも私達衆生をお救い下さる為、法華経をお弘めお残し下さった有難い日蓮大聖人に心より報恩感謝をしたいと思います。と伊丹上人は法話を閉じられました。そして又来年の御会式にも来て下さりご法話下さる事をお約束してくださいました。
本当に分かり易くお話し頂きましてありがとうございました。
記録 小林正子
合掌 時下益々ご清栄の事とお慶び申し上げます。
この度、信養寺の檀信徒の皆さまと共に、日蓮宗大荒行堂の荒行僧の加持祈祷を左記により受けることとなりました。
荒行僧は十一月一日より明年二月十日迄の寒壱百日の間、午前三時の一番水から午後十一時の最後の水と一日七回の水行をされ、他の時間は読経堂に籠り、読経三昧の修行をされます。三十五日が過ぎますと初めて面会が許され化他行(けたぎょう)と申しまして、人々にご祈祷をすることが出来るようになります。
本年は私が中山法華経寺に山務して間もなくより、いろいろとご指導を賜わりました北海道札幌市「妙心寺」若松宏泉僧正(筆頭副伝師)にご祈祷をお願い致しました。
この好機に行堂見舞をされ、一人でも多くの方々が大勢の荒行僧の御祈祷が受けられますよう計画致しました。
また、法華経寺本院に安置されてございます、日蓮大聖人御自作御開眼の鬼子母尊神様の御開帳も併せて受けさせて戴きたいと存じます。
就きましては、別紙申込書に記載の上、十二月四日迄に会費を添えてお申込み下さいますよう御案内申し上げます。再掌
日時:2016年12月23日(金)
※当日参拝できません方には陰祈祷をお願い致しますのでお申込み下さい。
信養寺の「お会式」が、平成27年10月11日(日曜日)に厳修されました。
午前11時より信養寺住職小林栄量上人ご導師のもと、杉浦上人、高野上人式衆にて法要が厳かに執り行われました。午後1時からは例年どおり、大阪「雲雷寺」住職の伊丹瑞栄上人の法話を聴聞いたしました。
伊丹上人は小林上人と大学以来の親友とのことで、平成24年のお会式で初めて法話をして下さり、以来毎年法話をしていただいております。今年も早朝に大阪を発たれ信養寺にお出で下さいました。
伊丹上人の法話は臨終をどうとらえるか、ということからスタートしました。日蓮聖人のお言葉に「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」とあります。とかく死ぬことは暗いイメージを持ちやすいものですが、日蓮聖人が理想の浄土として現わされたのが「大曼荼羅御本尊」であり、我々は大曼荼羅御本尊の世界から命をいただき生まれ、現世での仕事が終わり臨終を迎えると、大曼荼羅御本尊の世界へ戻っていく。決して暗い闇の中を自分一人で彷徨っているのではないのです。
日蓮聖人はこうも言われています。「自分は亡くなり霊山浄土にいるが、後から来た人を必ずお待ちしている・・・、但し各々の信心に依る。」死ぬことは怖いことではなく、お題目を唱え信仰を重ねれば必ず仏となって日蓮聖人に導いていただくことができるのです。
私たちはお釈迦さまが残された多くの教えを享受していますが、お釈迦さまはどのようにして人々に教えを説いたのでしょうか。当時の人々にとって、お釈迦さまの話は難しく理解できなかったため、始めは誰にでも分かるようなところからスタートし徐々にレベルアップして、ちょうどピラミッドの石を積み上げるように、数々のお経を説かれました。その頂点にあるのが最後に説かれた法華経です。法華経はお釈迦さまが説かれたすべてのお経が集約された最高の教えで、華厳経、阿含経、方等経、般若経など法華経以前のお経(爾前の経)が全て包含されています。法華経ではすべての人々は平等に成佛できる機会を与えられているのです。
法華経は全28章(品)から成り立っており、10章以降にはお釈迦さまは自身が亡くなられた後、法華経を広めこの世をどう導いていくかが記されています。特に争い事の多い末法の時代において、お釈迦さまは現在の弟子達(菩薩)では、娑婆世界で法華経を広める力量がないと判断され、地涌の菩薩を出現させました。おびただしい数の地涌の菩薩を見て驚いた弟子の弥勒菩薩は、この菩薩達は誰か。何処から来たのか。とお釈迦さまに尋ねました。お釈迦さまは、私は釈迦族の王子として生まれ19歳で出家し、菩提樹の下30歳で覚りを開き、多くのお経を説いて現在に至っているが、実は遥か大昔(久遠の昔)より仏であった。その時から教化してきた「地涌の菩薩」達である。末法の娑婆世界において法華経を広めることが出来るのは、「地涌の菩薩」の中でも最も優れた「上行菩薩」であると言われました。
末法の始まりは日本では鎌倉時代にあたり、源氏と平氏の戦いから鎌倉幕府と朝廷の争いが起こるなどお釈迦さまの予言どおり乱れた世の中になっていました。お釈迦さまは法華経を広めようとするものは、多くの法難に合うと法華経「勧持品」に記されています。日蓮聖人はこの「勧持品」に書かれている多くの法難に合うことを覚悟して、「法華経」の教えに基づいた国づくりを決意され、「立正安国論」を鎌倉幕府に進言するなど全身全霊を布教活動に捧げました。石や瓦を投げつけられたり、その場に住めなくなるような迫害を受け、更には命の危機にさらされるとこも幾度もあり、二度の島流しに合うなど、様々な法難に合いながらも法力により難を逃れました。二度目の流罪、即ち佐渡への島流しの折、正に自分自身のことが「勧持品」に描かれており、末法を救うためお釈迦さまから遣わされた「上行菩薩」であると確信されました。
お会式法要が盛大に行われるのは、日蓮聖人がお釈迦さまが説かれた「法華経」の中に登場してくる人であること。この世の中を救うことの出来る「お題目」が末長く継続していくことを毎年確認すること。一年間、法華経・お題目を信仰(広めた)した証として皆が一同に会し、日蓮聖人の報恩に感謝し、明日からの一年自らの信仰を更に深めるとともに、悩んでいる人を導いていくことを誓うことも「お会式」を行う意義であります。
*お釈迦さまの数多くの教えの中に大集経(五箇の五百歳)がある。
これは五百年ごとに訪れる時代を予言したもので、お釈迦さまが亡くなられた後の五百年は、お釈迦さまの教えを正しく理解して、覚りを得る人が多い時代「解脱堅固」。
次の五百年は、心安らかに修行ができる時代「禅定堅固」。
次の五百年は、お経を読み説法を聞く人たちが多い時代「読誦多聞堅固」。
次の五百年は、数多くの寺院や塔が造られる時代「多造塔寺堅固」。
次の五百年を「闘諍堅固」といい、争いごとが多く起こる時代。
さらに最初の「解脱堅固」と次の「禅定堅固」を合わせた千年間を「正法時代」といい、「読誦多聞堅固」と「多造塔寺堅固」を合わせた千年間を「像法時代」、
最後の五百年「闘諍堅固」はその後、一万年続くと言われる「末法時代」
広報 中村
平成二十七年四月十八日(土)、十九日(日)に日蓮宗の総本山である身延山久遠寺において、日蓮宗聖徒団 第五十回 記念全国結集身延大会が挙行されました。この記念大会に信養寺の小林栄量上人が全国の支部長を代表し、奉告式法要を始め各行事において副導師を勤められました。信養寺の信者として大変喜ばしく、また、光栄に感じております。信養寺聖徒団では第四十七回大会より参加し、今回で四回目となります。昨年、一昨年と小雨まじりの中での式典でしたが、今年は多少寒かったものの天候にも恵まれ、全国各地から七十六団体、約一、000人に及ぶ日蓮宗の聖徒が一同に会し、日蓮大聖人さまの眠る身延山久遠寺に集結しました。この大会の模様を皆様にご報告させて頂きます。
大会初日、午後一時五十分より「祖(そ)廟(びょう)参拝(さんぱい)」(日蓮大聖人のお墓参り)から行事がスタートします。小林上人を含む首導一行八名を先頭に、各聖徒団が列を連ねお題目を唱えながら祖廟へと向かい、御参りをさせていただきました。
続いて、信養寺聖徒団は身延山山頂にある「思親閣」への参拝に向かいました。「思親閣」は日蓮大聖人さまが、身延山山頂から生まれ故郷である千葉県の小湊に向かい、両親の菩提を弔ったことから親を思う「思親閣」と名づけられています。今年は、日蓮大聖人さまの御母の第七五〇遠忌のため、日頃は厨子に納められている日蓮大聖人さまの御両親の像も、厨子から出ておられ貴重なお姿を拝見できました。その後、夜の行事「唱題修行」に備えて宿坊にて夕食を済ませた後、午後七時半より山門前にて「唱題修行」が始まりました。
数百人の聖徒が唱えるお題目「南無妙法蓮華経」が、太鼓の音とともに身延山に響き渡ります。暗闇の中、大本堂へと続く石段は無数の竹灯篭で埋め尽くされ、「南無妙法蓮華経」の文字が浮かび上がり幻想的な世界が広がっていました。一心にお題目を唱えていると自然と体が温かくなり、力が湧いてくるような感覚を覚えました。
三十分間の「唱題修行」も気がつけば終わりを迎え、五十回を記念しての祝賀花火大会へと移ります。身延の夜空に色鮮やかな大輪の花火が頭上に降り注ぐように次々と打ち上げられ、都会の花火大会では見ることのできない絶景を味あわせていただき感動しました。
翌日は、午前七時三十分に久遠寺境内に集合し、全国各地から参加した聖徒団が団旗を奉じる「団旗観閲式」から行事がスタートしました。身延山久遠寺法主、日蓮宗宗務総長をはじめ役職の方々(小林上人も)が見守る中、北海道から九州まで参加聖徒団が次々に紹介され、紫紺の団旗が誇らしげに行進する姿は、全国結集身延大会の力強さを感じました。その後、全聖徒が大本堂に着座し、記念法話、祝辞、聖徒代表による献灯、献華、献香、納経、優秀聖徒団表彰と進み、小林上人が副導師を勤める「奉告式法要」が執り行われました。参加した聖徒一、000人の気持ちが一つになり唱えるお題目は、必ずや日蓮大聖人さまの下へ届くものと思います。記念法話での身延山久遠寺法主内野猊下の「総和」についてのお話に感銘を受けました。私たち一人ひとりのお題目の力を結集することで、現世が霊山浄土となり人々がやすらぎ平和な世界を次世代に繋げていくことができる。これこそが、日蓮大聖人さまの「異体同心」の教えそのものである。とのお話が印象深く残りました。全国各地から一同に会した約一、〇〇〇人の聖徒は偶然に集まったわけではなく、聖徒としての使命を果たすため、日蓮大聖人さまがお導きになったものと感じます。「四誓願」に謳われている「南無妙法連華経の道を持ち、行い、護り、弘める」こと。に力を尽くすよう背中を押されたような気持ちになりました。最後に、聖徒を代表して九十一歳になる女性の方が「誓いの言葉」を奉読されました。昨年、心臓の動脈瘤が見つかり直ちに手術を行わなければならない。との診断を下されたそうですが、霊断していただいたところ、手術は必要ないとの霊示であったため手術を断り、五十回の記念大会に絶対に参加できるよう、一心にお題目を唱え倶生霊神さまにご守護を祈られたそうです。今ではすっかり回復され「誓いの言葉」を奉読される姿は、とても九十一歳という高齢を感じさせないものでした。改めて「お題目」と「倶生霊神さま」の尊さを実感することができました。早朝からの一連の行事が滞りなく進み、第五十回の全国結集身延大会は無事終了しました。
広報担当 中村正弓
写真提供 沢里 正
信養寺の「お会式」が、平成26年10月19日(日曜日)に厳修されました。
午前11時より信養寺住職小林栄量上人ご導師のもと、杉浦上人、高野上人式衆にて法要が厳かに執り行われました。
昼食をはさみ、午後1時からは、大阪「雲雷寺」住職の伊丹瑞栄上人の法話を聴聞いたしました。
伊丹上人は小林上人と大学以来の親友とのことで、一作年のお会式で初めて法話をして下さり、以来毎年法話をして下さるとのお約束通り、今年も早朝に大阪を発たれ信養寺にお出でいただき「お会式」の法要にもご出席下さいました。
伊丹上人からは、日蓮聖人が鎌倉幕府から迫害を受けながらも「法華経」を説き広めた、その生涯についての法話をいただきましたので、その内容を皆様にもお知らせしたく筆を執ったところです。
東日本大震災を始め、近年日本各地で自然災害が次々と発生しています。最近では広島での土石流、御嶽山の噴火や各地での豪雨災害、「デング熱」や「エボラ出血熱」という耳慣れないウィルス性の病気も発生するなど、日蓮聖人がご活躍された時代と現在の社会状況がよく似ていると言われております。
日蓮聖人が法華経を世に示された鎌倉時代は仏教の「末法(まっぽう)」の世に入っており、自然災害や疫病が蔓延し人々は苦しい生活を虐げられていました。この窮状を救うためには「法華経」の教えに基づいた国づくり以外にないと「立正安国論」を説かれ鎌倉幕府に呈上しましたが、時の執権北条氏には受け入れられず多くの法難に遭うこととなってしまいました。
「法華経」には、この教えを末法に広めるものは上行菩薩であり、二度の島流しに遭いさらに多くの難に遇うと書かれているそうです。日蓮聖人は伊豆、佐渡への二度に渡り流罪に処せられ、在るときは馬上から切りつけられ、また処刑される寸前で奇跡的に難を逃れたりと、幾度となく「命」を落としそうになりながらも、法力により難を逃れられました。この経験から法華経に説かれている上行菩薩は自分自身であることを確信されたそうです。
法華経以前の教えと「法華経」の違いはどこにあるのでしょうか。それまでの教では、女性と悪人は仏になれないとされていましたが、「法華経」では、女人成佛、悪人成佛を明かされ、すべての人々は平等に成佛できる機会を与えられていると説かれており、最大の違いはここにあります。
日蓮聖人は度重なる難を乗り越え佐渡流罪の後、身延山に入山されこの地で弟子とともに9年間、法華経修行の日々を過ごされました。日蓮聖人は「恩」について、その生涯を通してのテーマとされていたそうです。日蓮聖人は、12歳で清澄寺に入り16歳で出家するまでの間、清澄寺の住職であった「道善房」を師と仰ぎ修行に励まれました。その「道善房」上人が亡くなられた折にその恩に報いるため著されたのが、御妙判(ごみょうはん)の「報恩鈔(ほうおんしょう)」です。
また、伊豆流罪中には「四恩鈔(しおんしょう)」を著わされ、四つの恩があると説かれています。
一つは、「父母」への恩です。私達は、両親の出会いがなければこの世に生を受けることはできません。自分の身も心も父母の命を受け継いだものと感謝することです。
二つには、「国」への恩です。正しい考えの基に国を治めれば、平和な世を築くことができる。そのために日蓮聖人は「立正安国論」を鎌倉幕府に諫(かん)暁(ぎょう)されたのです。
三つには、「一切(いっさい)衆生(しゅじょう)」への恩です。人は自分ひとりで生きているのではない。周囲の人々は勿論の事、命あるものすべての恩恵を受けて生かされていることです。
四つには、「三宝」への恩です。三宝とは、仏の恩・法の恩・僧の恩の三つです。仏の恩とはご本仏・お釈迦さまのご恩、法の恩とは、法華経・南無妙法蓮華経のご恩、僧の恩とは、上行菩薩・日蓮聖人のご恩のことです。我々の住む「娑婆世界」を救うため出現された「お釈迦さま」。その「お釈迦さま」がお説きになられた最高の教えが「法華経」です。数々の苦難に遇いながらも、その「法華経」を伝え弘めてこられた「日蓮聖人」への大恩を忘れてはなりません。
伊丹瑞栄上人の法話を聴聞し「お会式」の意義を深く知ることができました。私達も縁あって法華経(日蓮宗)の信者となり、充実した日々を送ることができています。このことに感謝し、日蓮聖人への恩に報いるため捧げる法要が「お会式」です。
日蓮聖人がご活躍された時代と現代とでは社会情勢が大きく異なりますが、人として根底にあるものには違いはないと思います。父母への感謝、国を憂う思い、生きとし生きるものすべてに感謝する心、法華経へ導いて下さった「日蓮聖人」への大恩を常に心に留め、信仰の道を歩み続けてまいります。
お会式の「会」の文字は、人々が集まるという意味もあるとのことです。来年もまた信養寺に一堂に会し、伊丹上人の法話を聴聞させていただきたいと思います。伊丹上人ありがとうございました。
* 末法 仏教での時代の観念
正法(しょうぼう) お釈迦様の教えが正しく伝わる時代で千年続く
像法(ぞうほう) お釈迦様の教えの像(かたち)だけが残る時代で千年続く
末法(まっぽう) 正しい教えが伝わらず邪な教えが蔓延する時代で一万年続く
信養寺 世話人 中村 正弓
先代住職 小林文榮上人「欲令衆」
下記のリンクをクリックすると
信養寺先代住職 小林文榮上人「欲令衆」
信養寺住職 小林栄量上人「ご祈祷」 を視聴する事ができます。
(※音量にご注意ください。)
この度、私達夫婦は、第48回全国結集身延大会に、ご縁をいただきまして参加する事ができ、本当に良かったと思っております。この大会に参加して、感謝の心が未熟で不足なことを確認でき、又感動と勇気をいただき大変良かったと感謝しております。
大会初日、身延山に到着する頃から小雨になり、少し心配しましたが、早速、日蓮大聖人の御廟に参拝をさせていただきました。大聖人の眠る身延山に御参りができまして感激です。その後宿坊にて休息し、夕食後、夜の行事であります『唱題修行』に臨みました。
闇に包まれた山門から、大本堂へ続く菩提梯には千本の竹灯籠が一面に埋め尽くされ、一本一本の灯が闇を照らし、それは、それは、もう幻想的で別世界でした。
そして、静けさの中で龍笛が奏でられました。その龍笛の音色は私の過去の病気を思い出させました。『前立腺がん手術治療』、『七年間に三度の不整脈(心房細動)発症での三度とも電気ショック治療で蘇生する』、その後、『頚椎症性脊髄症の手術治療』と、それらを何とか乗り越え、今日まで健康を取り戻しつつあります。生きている有り難さが心から沸いてきました。助けてくれた神様への感謝の思いと懺悔で涙がこぼれました。龍笛が終わり、ゆっくりとお題目を唱える声と、太鼓が一つになり、いよいよ唱題修行の始まりです。ふと正面上部には、なんと『南無妙法蓮華経』の光り輝く文字が現れ、驚きと感動を覚えました。太鼓の響く音が身体に染み渡り、同時に全聖徒団の唱える声が一体化し、胸が高まり興奮の中、一心に唱えました。
あくる朝、大会二日目は全国各地から参加した聖徒団が団旗を奉じる『団旗観閲式』から始まりました。日蓮宗管長、身延山法主始め多くの役職の方々の見守る中、参加県名、聖徒団名が次々と紹介され、先頭にはプラカード棒持者が立ち、団旗旗手、介添え者、が続きます。いずれも堂々とした姿での行進に大きな拍手での歓迎でした。
今年は89団体、北海道から南は沖永良部島までの9百余名の参加で、広範囲での結集身延大会に信仰の力強さを感じました。
その後、祝辞、記念法話、献燈、献香、納経など行事は続きます。
次に聖徒代表の信仰体験から得た『誓いの言葉』が奉読されました。
体験者の度重なる災難にも何とか軽症で難を逃れ、こうして健康で元気に暮らせるお話から、改めて倶生神霊符の神の力を、実感しました。
私達も、肌身離さず着帯し、さらなる信仰を全聖徒団と共に誓い合いました。
東京への帰路、身延山の山々は青空の下、雨上がり直後の日差しを浴び、ゆったりと春風に新緑を競うように躍らせています。やさしく私達を見送ってくれているようでした。
平成25年4月 吉日
信養寺 聖徒 久保 勉、久保 広子
平成24年10月21日(日)快晴の中、信養寺の御会式が厳修されました。
信養寺に着き、綺麗にお掃除されている絨毯を踏みしめ多目的ホールの二階へと進むと、そこは一転お茶席となっておりました。
正面舞台には中村友美様がお点前をされ、手前に野点の朱傘が飾られ「無有懈倦」(法華経提婆達多品第十二の一説)中村茂様奉納の書、お花は秋明菊が飾られ、社中の皆様によるお茶の振る舞いが行われ、私たちもおすすめを頂き席に着きます。お菓子は紅葉金団、運ばれた薄茶は織部茶碗にたっぷりと点てられていて、大変美味しく頂戴いたしました。
そして「御会式繰り弁にみる日蓮大聖人一代記身延から池上入滅迄」と書いてあるパンフレットをいただき三階の本堂へと向かいます。
ご宝前には、三笠蓬莱先生作のしだれ桜を始め、生花、果物、紅白のお供え等が飾られていて、御会式の雰囲気がかもし出されていました。堂内では中村正弓様が太鼓の前に座られ奉仕され、唱題行が行われておりました。
午前11時より信養寺住職小林栄量上人ご導師のもと、矢田堀上人、高野光誠上人式衆にて日蓮大聖人第731遠忌報恩御会式が厳かに開式となりました。
道場偈、三宝礼、切散華と進み、花皿より五色の散華がひらひらと撒かれ、読経へと進む中、静かに中村宗和様がお濃茶を天目台に乗せて進まれ、高野上人に取り次いで住職の手で献茶され、式衆の両上人が銅鑼と鈸を打ち鳴らされ、しばし鳴動する。読経が続き報恩塔婆読み上げられ式も終わりへと近づく。
御会式終了後、信養寺前の集会所へと移り、稲葉隆一総代の先導のもと、皆合掌し、お題目を三唱し、ご用意いただいたお弁当を楽しく語らい乍ら美味しくいただく。食事を済まし再び本堂に戻る。
一時になり、住職から伊丹上人のご紹介と、ご法話を頂くことになった次第をご紹介と御挨拶がありました。
伊丹瑞栄上人は、大阪「雲雷寺」の住職をされ、日蓮宗専任布教師、聲明師、一級霊断師、全国日蓮宗青年会元委員長であり、そもそものご縁は、大学が一緒だったこと、その時、今日式衆を務めて下さる高野光誠上人のお父上の高野光祥上人ともご一緒で、それ以来三人は40年近くの親友であること、その高野光祥上人が、昨年9月にご遷下され、本当に驚いたこと、今年の9月には伊丹上人と共に佐世保の高野上人ご自坊に行かれ菩提を祈らせて頂いたこと、心残りであったであろう息子さんの光誠上人が今年荒行堂初行として入行なさるので無事成満を皆でお祈りしましょう。そして高野光祥上人が信養寺の御会式にずっと来て、ご法話頂けるという事になっていたのが、叶わなくなってしまったので親友である伊丹瑞栄上人が引き継いで下さったこと等をご紹介下さいました。
演台に立たれた伊丹上人は、信養寺さんとは、この所ご無沙汰致しておりましたが、ご紹介の通りで、お父様は小林文榮上人、お母様は豊子様で、東京におりました時には、大変お世話になりました。お姉様方にも良くして頂きました。
色々なことがありましたが、先程法要の中で欲令衆というお経が心に残りました。
欲令衆を聞いていて、私がまだ若かった頃、信養寺様ご一行の皆様とご一緒に七面山参拝に行った時の事を思い出しました。七面山を登っていくと、途中に水子地蔵様がお祀りしてある所や無縁様をお祀りしてある所があるのですが、そこでは特に小林文榮上人のもと沢山のお経をあげていただいたのを思い出します。と仰言って当時を思い出しているのかしばし無言になられた。聞いている私達も当時を思い出し、思わず涙がこぼれそうになりました。
先程小林上人からもお話しがありましたが、私も高野上人と仲が良く、昨年ご遷化された時は本当に驚きました。
お坊さんが亡くなると、遷化(せんげ)されたと言います。遷という字はよそに移るという意味を持ち、教化の場所を移す、化は教育化導(良いように相手を導く教えの場を終わって他の場所に移って行く)「遷化」とは、この世の教化を終えて他国土の教化に遷移する。高野上人も霊山において我々を見守っている事と思います。
今年から毎年法話をして下さることになりました伊丹上人の、時にユーモアを交え仏教の始まりから丁寧にお話し下さいました。
約一時間のご法話、皆一様に感激をし、檀信徒の皆様からも、今から待ち遠しいと口々に申されておりました。
来年は、日蓮大聖人の出現からのお話となってくるそうです。
伊丹上人有難うございました。
こうして、信養寺の日蓮大聖人報恩御会式が閉じられました。
記録 本多澄江・小林正子
平成25年4月20・21日(土~日)
「日蓮が弟子檀那等はこの山を本として参るべし」ご聖訓
参拝がすみますと、各宿舎へと向かい、夕食後、一日目の大行事、唱題修行です。山門前の石の上に座り、竹灯の千本の灯りを見ただけで、心が静まります。太鼓の音と共に全国の方々が声を一つに、ゆっくりと静かにそして大きく早くと、知らずに高揚してくるのが解ります。そして再びの静寂と共に、正面に「南無妙法蓮華経」の紫の字を拝見した時は自然と涙がこぼれます。真っ暗の闇の中に一点の光明とは、まさしくこういう事なのだなと。
この大会は日蓮大聖人様に日々のお題目信仰で成長した、自己の姿をご覧いただき、お題目弘通(教え広める)した一年の成果をご報告する厳粛なる一大式典であります。当山に於きましても団旗と聖徒たすきを新調いたしましたので、毎年この大会に参加したく存じます。皆様お誘いあわせご参加下さいますようお願いいたします。
浄行山信養寺住職 小林栄量
第3日目6月17日(日)
午前9時秋保温泉を後に仙台南高速道を北上し、塩釜港に向かいました。
仙台南道の右側(海側)一帯は津波の被害が大きく、左側(内陸側)は仙台南道の側面が防波堤になった為に食い止められ、被害が少なくのがれたそうです。でも側面は金網で囲ってありまして、人の出入りまでは至らなかったようです。
塩釜港より遊覧船でおおよそ1時間の船旅です。船内売店でカモメの餌を買い指でつまんで、空に向けると舞っていたカモメに直ちにくわえられてしまいます。カモメも慣れたもので船の窓際や後部で待ち構え、空を舞っています。皆さんと童心に戻り、大はしゃぎ?カモメとの楽しい触れ合いが出来ました。船内の大きな休憩室で売店の女性の方が、大津波の状況や島々の被害状況を親切に?説明をしてくれました。まるで世間話のような語りで、時折ジョ-クも交え、分かりやすく語ってくれました。お客さんの同情をまとめたころ合いに「松島海苔の大、小、昆布、のしイカ、缶詰、ガイドブック」等の販売に早変わりです。私も、俺にも、と次々と売れた次第です。
ひと時の和やかな笑いを発信してくれました。また松島湾の島々が押し寄せた大津波の防御になった為、津波の規模が縮小され、他地域と違って被害が小さかったとの事。松島の方々の島々へ感謝する気持ちが伝わってきました。
朝からの曇り空が晴天に変わり、湾のそよ風が心地よく感じられた遊覧船のひとときでした。
松島に上陸後、五大堂、瑞巌寺と見学が続きます。
瑞巌寺は現在大改修中でしたが、展示品は大書院、庫裡、青龍殿に移設されておりますので、よく見る事が出来ました。
松島にて昼食を済ませ、自由散策後、仙台市宮城野区の「孝勝寺」を参拝しました。
孝勝寺は伊達家から庇護され日蓮宗東北本山として、その存在感を示しております。伊達正宗公は数度の合戦に出陣する毎にこの寺で戦勝祈願し強敵を降ろして凱旋したことから、縁起の良い寺として知られております。
旅もそろそろ終わりに近づきました。
仙台駅での自由時間があり、最後の買い物です。手荷物はすでに今朝自宅あて送ってあり、多少身軽さがその気にさせる。
仙台発15時30分、やまびこ62号に全員乗車、車内は楽しかった3日間の各名所や、お寺や、あっち、こっちの話で盛り上がる。
18時28分 東京駅に全員無事に到着し、改札口の一角に集合、信養寺小林ご上人よりご挨拶を頂きました。お陰様でみんな無事で楽しく愉快な旅を過ごせた事をお互いに確認し散会いたしました。
企画から種々ご手配準備を頂きました、幹事の皆様有難うございました。また添乗いただきました大根様有難うございました。旅を良く知った方で各地での時間割、バス移動の気遣い、ホテルの運用、等裏方として、一生懸命行動いただき、安心して楽しく思い出を作る事が出来ました。大根さんの「楽しい旅の裏には油断があるからみなさ-ン気をつけてネ-」のひと声がうれしかった。
以上東北地方団参の旅ご報告といたします。
久保 勉・広子
第2日目 6月16日(土)
午前9時大沢温泉山水閣を出発、厳美渓にバスを進めます。
車中ガイドさんより、みなさ-ん おはよう ございま-す のご挨拶。みなさ-ん お顔の肌【ツヤツヤ】で-す。5歳は若返っていますね~の声です。やっぱり?温泉の美肌効果があったようです。
大沢温泉山水閣は、豊沢の湯、山水の湯、南部の湯、薬師の湯 大沢の湯など、沢山抱えており豊富な湯で知られておりまして皆さんの、湯巡りが効いたかも? 本当にツルツルになりますヨ
さて厳美渓に到着です。厳美渓は栗駒山を源流とする磐井川の中流にあり、巨岩を侵食し奇岩、怪岩など多く、風光明媚な名所です。早速名物の【空飛ぶ団子】を注文です。清流の畔の休憩所の板をたたき、対岸の店主に合図すると籠に入れた団子が【ロープウエイ】でシュル シュルと降りて届く仕組みです。小雨も気にならず皆さんと団子兄弟となった次第。
続いて近くの毛越寺浄土庭園の観光です。少し小雨が降り、いにしえのムードたっぷりです。庭園をゆっくりと見学出来ました。池の周りにあやめも咲き、そのほとりにたたずむと女優の吉永小百合さんがそこにいるような感じでした。奥州藤原氏が求め創り上げた理想の浄土庭園を肌でたっぷり受け止めました。
昼食は平泉中尊寺近くでいただきました。被災地復興への思いとユネスコ世界遺産としての注目を浴び、何処のお土産屋さんも満員状態です。
三陸のコンブ、ワカメ、ノリ、和菓子,饅頭、せんべい,漬物、地酒などつい手が出ました。復興の手助けになればと自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。
中尊寺金色堂の見学です。金箔の金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂(さやどう)におおわれておりまして、幾度か改修されているそうです。金色堂の須弥壇には藤原清衡、基衡、秀衡、のミイラ化した遺体と泰衡の首級が藤原4代にわたって納められているとのガイド放送には本当に驚きました。1124年の造立で現存する唯一の創建遺構でもあり、極楽浄土を表した金箔にも目を奪われました。
平安末期の1095年頃藤原清衡が戦乱の世を乗り越えてこの平泉に居を構えたのが始まりだそうです。そして1189年源頼朝に侵略されるまでの約100年間、優美な平安王朝文化の花を咲かせました。豊富な【黄金】を使い、3000点以上の国宝や重要文化財が今もこの地に守り伝えられているのには感動いたしました。
見学を終えバスは本日の宿泊場所、秋保温泉「佐勘」へと向かいました。
秋保温泉は仙台の奥座敷ともいわれ、「佐勘」は一番の老舗だそうです。その昔、仙台藩主伊達家の湯浴御殿として栄えた宿として語られております。
大きな建物で豪華です。広すぎて迷いそうです。
早速、殿様気分になり、のんびりと湯浴びです。まったくいい気分?いい気分??
本日の夕食は幹事さんのご配慮で宴会となりました。宴会と言えばもちろん【カラオケ】もセット。豪華な食事でお酒も入り、だいぶくつろぎました。幹事の小林勝さんに引っ張り出されては皆さん、思い出の歌、懐かしの歌、今はやりの歌、それぞれに選曲されました。最初は戸惑いましたがもう一丁の感じで挑戦してくれました。みなさん大変上手で、丁寧な歌い方でプロ級です。皆さんの歌い上手、踊り上手、にはもう参りました。
座も盛り上がり最後には宴席の真ん中で、みんな手をつなぎ、輪になって
踊りだす始末。これは何?秋保温泉踊りか? すずめ踊り? 大賑わいの愉快な宴会でした。
昨年3月11日、東日本を中心とした未曾有の大震災が発生し、数多くの尊い命が犠牲となりました。また甚大な被害で沿岸部一帯が【浜、港、街、山】全て破壊されました。
まさに東日本が壊れ、変わり果ててしまいました。そして震災から1年と3ヶ月経過した6月13日現在で死者15,861名 行方不明者2,939名となっており、身内の方々、親戚を含め関係する方々は、悲しく辛い涙の枯れない日々を送っている状況にあります。被災地での復興の兆しは日を追って進捗していると聞きますが、地域格差もあり、思うようにはかどってはいないようです。今も多くの人々は、かっての生活を取り戻せない有様でございます。
信養寺では、昨年の6月にいち早く、この被災地の復興に何らかの寄与をしたく計画しておりまして、私たち檀信徒にご案内がございました。
それは【観光と日蓮宗寺院巡り】を6月15日~17日までの3日間開催し復興の一助にしようとの計画でございます。およそ1年間で費用を積み立てし、檀信徒の方々の参加を呼び掛け、ご賛同を得てこの度実施されました。旅のひとときをご紹介しましょう。
参加者 総員 22名 (大木ご夫妻のお子様2名含む)
添乗員 大根 様 (おおね さま)
第1日目 6月15日(金)
東京駅八重洲中央口集合午前8時で全員早めにバッチリ揃いました。早速大根さんのご案内で東北新幹線やまびこ53号に乗車、新花巻駅へと出発進行です。当日は雨の心配もなく晴れ渡り、やがてビルの都会から景色も里山風景に変わり益々、旅気分です。田植えが終わって約1ヶ月余経ち、苗も成長し、生き生きとそよ風に揺られ、緑豊かな田園風景が続きます。
11時41分新花巻駅に到着、手配の観光バスに乗り換えです。
優しそうな相沢ドライバ-、明るい笑顔の菅原ガイドさんが担当、大歓迎でのお出迎えです。早速、昼食会場に案内をいただきました。店の前では花巻農学校OBの女店員さんが鹿踊りの出迎えでびっくりです。太鼓をたたいて、足を跳ね上げ、リズムカルに踊る姿についはまりそうになりました。
昼食後、一息入れて市内の高台にあります、「身照寺」に参拝です。
身照寺には詩人で童話作家の【宮沢賢治】の墓があり、菩提寺として広く知られております。境内には身延山から送られた6本の紅しだれ桜が大きな枝を垂らし堂々と初夏の風をうけ、ゆらりゆらりとその風格を感じさせます。
身照寺住職は牛崎海秀ご上人で、信養寺小林ご上人とは、中山法華経寺におきましての「寒百日間祈祷修法習得」の為の荒行を再行・参行と共に入行され、お互いに励まし、支えあった間柄とのことで、久しくお話をされておりました。
牛崎ご上人の講話では身照寺の歴史を詳しく語られました。そして宗祖日蓮大聖人御尊像を御開帳にて参拝させていただきました。600年を超える歴史を飾る身照寺で日々コツコツと活動を重ね続けられており、時にはユ-モアを交え地域の人々や、暮らしぶりを紹介くださいました。
牛崎ご上人は宮沢賢治のことを「賢治さん」とお呼びし親しく話をされます。その話し方で一部を紹介しますと、賢治さんが生れた明治29年ごろは戦争もあり、地震、天災や凶作が続き貧困と不幸に悲しむ人が多かったそうです。一方、宮沢家は経済的にも恵まれ、財力のある家庭に育ち、勉学に励んだ暮らしだったそうです。幼少のころから父に大事に育てられ、あらゆる事に興味を持ってやがてそれが多彩な活動の肥やしとなったことと思われます。
18歳の時【妙法蓮華経】に出会い、深い感動を受けたそうです。その事がその後の活動として法華経の教えを基盤にして作り上げられておるそうです。
天性の鋭敏な感受性と表象力で創作しながら、当時の貧しい農民の生活を豊かにする為に力を尽くされたそうです。まさに雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ‥‥‥‥‥のごとく、‥‥ 詩を思い出しました。
賢治さんは教育者でもあり、科学者でもありました。貧しい農民の為に稲作指導に尽くし、農村に科学と芸術を生かした新興文化を目指したのですが、残念ながら病に倒れ昭和8年9月21日、38歳にて生涯を閉じました。
まさにその生涯は菩薩行そのものであったそうです。
身照寺の牛崎ご上人は、今も自ら、釜石や沿岸部の避難住宅に出向き、お世話をしているそうです。不便な生活に耐えながらも、被災者の皆さんは自分の事は計算に入れず、他の人に手を差しのべる慈悲の思いを強く持ち暮らしているとの事。自分よりもっと困っている人への思いやりが優先する心であり、当時の賢治さんと重なる心、思いであり、まさに【絆】ではなかろうかと強調されました。私もまったくその通りと胸が熱く感じました。
帰路、門前に牛崎ご上人ご夫妻と、お子さん、お母上様の4名で私たちのバスが見えなくなるまで手を振って見送ってくれました。
被災者のお話などひしひしと東北の温かい心に触れることができ感激いたしました。
その後バスにて宮沢賢治記念館を見学いたしました。賢治さんの事を更に詳しく学ぶ事が出来ました。賢治さんは岩手県をイーハトーブと言って銀河の空間、4次元宇宙を目ざしました。日本の宮沢賢治ですが、ご上人の言葉通り世界の宮沢賢治を本当に実感いたしました。
時は午後4時に近い時間となりました。不慣れな旅と緊張で凝り固まった体をゆっくりと温泉でほぐしたい気分です。一路今晩の宿泊場所である【大沢温泉 山水閣】へとバスは向かいました。
平成24年2月19日(日)穏やかな日に大黒天神祭が執り行われました。
一年間のご守護の感謝と今年一年のご守護の祈願を込めまして、子大黒天神様を勧請されておられる皆様は大黒天神尊像を大切にお持ちになり、大黒天神様にそれぞれの祈願をお願いしている方々と併せ60数名の檀信徒が参集して「大黒天神浄塩香浴秘法」の法要が奉行されました。
小林栄量ご住職導師のもとに中山法華経寺より、佐藤・高野両上人がお手伝い下さり厳かな中にも力あふれる法要でした。
住職のお説法では、大黒様のお祭りは甲子(きのえね)の日で、60日に一度廻って来るので、一年間で六回あるのが通年ですが、今年は甲子の日が七回廻ってくるという貴重な歳であり、大黒様のお働きも更なるものがあるとの事でした。
法要が終えると、大黒天神浄塩香浴秘法がなされ神力が蓄えられました子大黒様を有難く頂戴して、お上人からのお言葉通り、皆様も何処にも立ち寄らずにまっすぐに帰宅して、ご祭祀されたことと思います。
数年前に最愛の夫を突然失い、辛く悲しい日々が続いておりましたが、我が家にご祭祀しております大黒様のお姿が厳しく怖い顔に見えたのに驚き、大黒様を一心に祈りお経を唱え、お題目を一生懸命あげているうちに、不思議と前向きに歩むことが出来るようになりました。最近では大黒様のお顔がとても優しく微笑みを浮かべ見守って下さっていることに気がつきました。
これからも笑顔で幸せに暮らせるよう一生懸命努力精進してまいりますことを、大黒天神祭に当たりお誓い致しました。
渡辺知子
2012 1.8 信養寺
新年明けましておめでとうございます。今年も、良い年となりますように、信養寺での修行に勤めたいと思います。
バイオリン演奏奉納
バイオリンの演奏を堪能することができました。演奏もさることながら、音楽に対する真摯な態度、感銘しました。ことを成す人は何事にもまじめに取り組むものだと再認識。
お茶と花びら餅
濱田先生一門による、抹茶と花びら餅の振る舞いがありました。
抹茶等を頂き、お正月気分となり、めでたい気持ちとなりました。また、抹茶及び花びら餅も、濱田先生による信養寺へのご奉納です。(合掌)
御祈祷
今年最初の御祈祷は3人のお上人によるものです。お一人は、中山法華経寺で小林上人とお勤めした山岡上人。もう一人の方は、プロボクサーの経歴を持つ、異色の阿部上人。
新年の霊験あらたかなる御祈祷を厳粛に受け、また皆で御題目を合掌し、今年も幸あれと祈願しました。
Iさんの超次元現象
小林上人の身近で急須が何度も割れるという不可思議なことが発生したそうです。後に状況を整理したところ、お茶をたしなんでいた方が亡くなられ、「急須」を通じて、死を伝えただろうと理解したとのことです。
人類の英知を超えた世界が存在する、「超次元現象」については、小林上人の説法の中でたびたび語られてきました。この話が出るたびに、仏様におすがりし、自分の人生を全うする必要性を感じるものです。
正月らしい忙しさ
一般信者による、信養寺での最初のお勤めは、正月らしい慌ただしさで、終わりました。諸々のお札配り及び事務手続き等など。毎月のお勤めより、多忙感がありましたが、それもまた、お正月と思えば、めでたくもあり有難くもあるものでした。今年もよいことあれ
今年最初の勤めも、無事終了しました。「1年を12回の修行と捉えよ」との小林上人の教えを胸に、毎月の修行に参加したいと思いました。
新年での新たな思い、誓いであります。今年も「信養寺」を修行のよりどころとして、この1年を幸せな年にしたいと、再度祈念します。 合掌 鈴木哲治
平成23年12月23日(祝日)大本山中山法華経寺大荒行堂の参拝が行われました。
荒行堂の加持祈祷を受ける前に、私達信養寺壇信徒に向けて、中山法華経寺の新井日湛貫首様が御自身の体験談を含めて、分かりやすく楽しく法話をして下さいました。印象的であったお話は、発願を立てお祈りし続ければ、その願いが叶えられるということでした。中山法華経寺には、多くの参拝者が全国各地から足を運びますが、特に大型バスの駐車スペースを確保することが難しかったそうです。貫首様は大型バスの駐車場を作る土地が確保できるよう発願し、8年間お祈りしたところ、千葉街道に面した土地を確保することができ、今後は団体の参拝者もバスの駐車場に困ることなくお参りに来れるようになるというお話でした。何事も難しいと思われることでも、願いを思い続けて一心にお祈りすれば叶うという事なのだと思いました。
中山法華経寺は700年以上の歴史を持ち、日蓮大聖人御真筆遺文で国宝文化財でもある「立正安国論」や「観心本尊抄」の宗宝の他、国の重要文化財を所蔵し、総本山に次ぐ高い地位のお寺です。また、日蓮宗の祈祷の根本道場として、11月1日~2月10日の寒壱百日の間、全国の日蓮宗の僧呂が入行され、祈祷修法習得のため荒行をされます。
毎年、信養寺の壇信徒は荒行僧を見舞い、加持祈祷を受けております。今年は、100余名の申込があり90名程の方が参加しました。加持祈祷の順番を待っていると、冷たい床を裸足で歩き、潰れた声で私達を案内して下さる修行僧を拝見しました。厳しい修行をして私達に加持祈祷をして下さることに感謝の念が沸いてきます。そして、荒行堂内に入ると、外の空気とは一変して荘厳な空気に包まれます。あれこれ考えていた心の中が一瞬にして無になり、懺悔と感謝の思いが込み上げます。そして荒行僧に囲まれ加持祈祷が始まると、鋭い木剣の音と潰れた声で叫ぶようなお経が四方から体中に響きます。その迫力に圧倒され、顔を上げることもできずに一年間の懺悔と感謝を込めて一心に祈ります。
御祈祷して下さった全堂副代表の田中見定上人導師の下、両脇座には全堂代表の藤上人、五行代表の藤田上人と、上位三人の方の導師が中心に、沢山の修行僧の方々が御祈祷して下さったのだと実感し、幸福に思いました。
加持祈祷を受けた後、面会していただきました田中上人は小林栄量上人のご友人で、中山法華経寺に40年以上勤められているという話を伺いました。厳しい修行中にも関らず、優しく穏やかに私達の来福を祈って下さいました。感謝いたします。
面会後、日蓮大聖人御自作御開眼の鬼子母尊神様の御開帳でお姿を拝み、壇信徒一人一人の家内安全・身体健全を祈念して頂きました。薄暗い本堂の中にお姿が現れると、とても美しいお姿に感動しました。毎年、鬼子母尊神様のお姿を拝んでおりますが、私はお顔が見えたことはありませんでした。しかし今年、私の妹が鬼子母尊神様と目が合ったと話しておりました。鬼子母尊神様の目は生きている人間の目の様であったと言っていました。
年の暮れに日蓮宗大荒行堂を参拝し、加持祈祷を受けて心身共に清められました。そして、新年に向けて新たな思いで祈願することができた一日となりました。小林栄量上人には、毎年この様な機会を頂き、感謝御礼申し上げます。
中村友香